遺伝記の攻略ガイド
遺伝記を自分色に染めるにはどうすべきか?
恐怖小説をただ野放図に発表するというだけではないのが遺伝記です。
如何にして自分の作品に読者の注目を集めるか?(作家が作家でいられるのは、読者がいてこそです)
如何にして他の作者を自分の作品に続かせるか?(行列は先頭に近いほうが目立ちます)
如何にして設定的に重要な地位に立つか?(全ての道はローマに通じてます)
恐怖小説のコンペであると同時に、ある種の戦略を考えていくこともできます。
怖い小説を書けること、という大前提に立った上で、駆け引きで自分を有利に導くことも可能です。
良いものを書けばいつか誰かが見てくれる――という受け身な謙虚さも良いものですが、シンデレラになるためには、ガラスの靴を置いてくるという戦略も必要です。選ばれると選ばせるの差とでも言いましょうか。
言うなれば、遺伝記はまだ真っ白なシリーズであるわけで、誰が代表的な著者かも定まっていません。
遺伝記の末席に連なる一人になるのか、遺伝記を自分色に染めることで「遺伝記と言えば○○○」と言わしめる、自分自身の代表作にするのか。
以下は、編集者的に見た、作家志望の人のための遺伝記の活用の仕方でもあります。
我こそはと思う人がいれば、うまうまと遺伝記を美味しく乗っ取っちゃっていただきたいと思います。
●どんな話を書いていくべきか? ――よりたくさん読んでもらうには
参加を決めたら、とにかくまず早めに書く、早く書くということが重要です。
遺伝記に書くためには、その時点で公開されている話を読む必要がありますが、早い時期なら先行して発表されている作品も少ないため、読むのが楽。
また、早めに書いて早めに出すことで、遺伝上の上流……つまり、他の応募者に「参考にされる側」に付くことができます。
さらに、早めに出してしまえば、後半は他の応募作を読んで審査をすることに時間を割くことができます。
渾身の1話だけ書いてそれで終わり……というのもアリなんでしょうけど、違う話を次々にたくさん書くことも重要です。
内容に自信があるなら、書いただけ点数は増え、同時に傑作選収録数=印税報酬が多くなる、ということです。
遺伝記傑作選はできるだけ多くの著者の掲載機会を増やすことよりも、同じ著者のものであっても人気のあった作品を多く収録するすることに重点を置いています。ですから、自信があるならたくさん書いたほうが有利なわけです。
また、同じ話をシェイプアップするというだけでなく、違う話を次々に思いつける、次々に新作を書くことで筆が速くなると同時に、審査員の審査を受ける機会を多く得られます。自分の書いた話を趣味や好みが違う他の人に見て貰って、様々な視点からの感想を得るというのは、一人で書いているとなかなか得られない機会です。自己完結しないで切磋琢磨するには、講評をできるだけ多く集めたほうがよく、そのためには数を書いたほうがいいわけです。
もちろん、書いた話が良い評価をされるとは限らないわけで、好みではない、いまひとつと評価する審査員が多ければ、数を出すことは逆にリスクになります。遺伝記では審査で得られる配点はプラスだけでなく、マイナスもあるためです。+4点の好評は、−4点の辛評で帳消しになってしまいます。
「いつか晴れ舞台が来るときのために、アイデアを温存」という人もいるかもしれませんが、アイデアは生物。いつ来るかわからない晴れ舞台を待っている間に、似たようなことを他の誰かが先に書いてしまうというようなことは、珍しいことではありません。思いついたアイデアを大切にしまい込んでいるようでは、あっというまにアイデアが枯渇します。どんどん使ってどんどん新しいアイデアを生み出せるくらいでなければ、やっていけない世界です。
本数を書く、書ける、というのはそういうことです。
吟味して、なおかつ早くたくさん書け、と。
遺伝記では話の長さに特に制限はありません。ですから、それこそ1本で文庫3冊分くらいの分量があろうが、1行で終わろうが、どちらでも問題はないわけです。
が、魅力のわからない大河小説を最後まで読んでくれる人というのは少数派です。
遺伝記では、応募者には相互講評をしないとペナルティが発生するルールがありますが、一般読者から成る一般審査員には、審査コンプリートの義務はありません。つまり、長い話は読むの大変だから飛ばして審査せず、短い話は読むの楽だからどんどん読まれて講評が増える……という展開も考えられるわけですね。
しかし、短すぎる話はそれはそれで新たなアイデアを組み込んだり、緻密な描写を重ねるには不向きであるわけで、やはりほどほどの長さも欲しくなるのもわかります。
そのほどほどの長さとは、どのくらいの分量か? これについては、特に正解はありません。
一応、文庫で4〜5頁分程度、という基準は上がっていますが、これすら絶対ではありません。ただ、この長さというのは「設定・前提を理解した上で、飽きずに読むことができ、読み終わるまでに話の前提を読者が忘れず、ちょっとした余暇時間でも読み切れる」という長さでもあります。
もちろん、もっと短いのに読むのが苦痛なものもあれば、10倍もあるのにあっというまに読めてしまうというものもあります。ですから、自信があるなら長く書いてもいいし、量を稼ぐために短く書いていくというのも、もちろんアリアリです。
読者を如何にキャッチするか、ということを考えると、短ければ短いほど有利というのは実際の所あるかもしれません。
実は、Webで読み物を読む人には、携帯電話からの読者が相当数います。一度に表示できるディスプレイが小さい携帯電話から読む場合、前に遡らなくても読める長すぎない話は、お話の理解把握だけでなく懐にも親切なんです。
遺伝記が通常の「自信作の発表会」と違うのは、自作内だけで通じる独自設定にこだわるだけでは意味がないということです。
もちろん、オリジナリティ、新鮮さを独自設定に求めるのは当然ですが、それが自分にしか使えないひとりじめの設定では、その作品には子孫が出来ません。
できるだけ多くの設定の遺伝子を受け継いだ子孫を増やすこと、大家族を形成していくこと、というのが遺伝記では重要な意味を持つことになります。
(5)続きを書かれやすい重要な設定遺伝子を持つハブ作品になる
独自設定で唯我独尊、誰も後に続かない……こうなってしまうと、その作品は袋小路の突然変異種になってしまいます。
遺伝記では、作品同士が互いにリンクされることになるわけですが、続きを書かれやすい作品はそれだけ子孫の作品を読んだ読者が、リンクを辿って遡りやすいということになります。より多くの作品が設定遺伝子を引き継いでいる場合、それだけ多くの読者が「元ネタ、または繋がっている話」を求めて来ることになります。子孫作品が多いほど、多くの読者を獲得できる可能性が増えるわけです。
続きを書かれやすい重要な設定があり、多くの続編が書かれやすいというのは、港で言えば国際貨物コンテナのハブ(ターミナル港)みたいなもので、多くの船=読者が一度そのターミナル港に立ち寄り、荷物を積み替えて別の港に向かって出て行きます。
荷下ろしされるだけの最終消費港と、荷物を下ろしに来る船と積みに来た船がごった返すターミナル港では、どちらのほうが船の数が多いのかは、言うまでもありません。
後発の応募者が参考にするハブ作品・ターミナル作品になるような、続編を書かれやすい重要な設定遺伝子を持つ話を書くことで、その有利な位置を手に入れることができるでしょう。
(6)既にある重要ハブ作品同士を繋ぐブリッジになる
公開されている作品の設定遺伝子を引き継いだ続編を多く書くことで、設定遺伝子のフォロワーになるということが遺伝記の基本ルールですが、「続きを書かれたい」というシンデレラのガラスの靴を「両足とも揃える」というのもひとつの戦略です。
接点のない作品Aと作品Bの間を繋ぐ作品Cを後から書き足すことで、AとBは繋がれることになるわけですが、双方の間に割って入ることで、後から割り込んだ作品Cの地位が相対的に高くなります。例えば、作品Aと作品Cが既に抱えている多くの子孫作品の読者にとって、双方を繋ぐブリッジになる作品Cの重要度は増すことになります。
これによって、作品A、作品Bとそれに連なる読者を作品Cが獲得できるようになるわけです。
単に点数を稼ぐためというだけではありません。小説作品はできるだけ多くの人に読まれることが重要で、読まれた証しとしての講評が増えるというのは、多くの読者を獲得したことの証左でもあるのです。
(7)自作だけで連作している自己完結連作のいいとこ悪いとこ
遺伝記では設定遺伝子を引き継いだ作品がたくさんあれば良いわけですが、ここまでの戦略を総合すると「早く、たくさんの話を繋げて書く」というのがよい、ということになります。
もちろん、自分一人でたくさん書いて、自分の話だけをどんどん繋いで自己完結の連作を増やしていくということも可能ですし、それを戦略として禁止することもありません。他の応募者に比べて、数多くの話を出すことで遺伝記に領土を拡大していく、というような考え方ですね。
実際、応募者が少ないまたは応募作の総数が少ない場合は、たくさん書いた人の設定遺伝子のウェイトは相対的に重要になりますし、自分が10作書いている間に他の人が合計3作しか出していなければ、そのまま自作だけの自己完結連作になってしまいます。
この場合、独占した人が汗を掻いた分だけ占有率が高くなった、ということになります。
ですが、他にも応募作があるときに自分の作品だけで自己完結した連作を出すということは、いいことばかりではありません。
遺伝記では発表時は全てが匿名で公開され、作品タイトルと内容だけが発表されます。ですから、それらが同一人物の自今完結した連作なのかどうかは、結果が発表されるまではわかりません。
しかし、どれとどれを書いた人が同一人物か? というのは、最終的な発表の前に行われるエントリーNoの同定(公開済み作品に、応募者のエントリーNoを付けたリストを公開する)の時点で、必ずわかります。
その発表を待ってから「著者としてはエントリーNo何番を推すか?」を、審査員全体に訊ねることになるわけですが、その時点で「実は他人の設定をひとつも援用しない、自分だけの話ばかりを書いていた」というのが、協調性がなく独りよがりと判断されてしまう可能性もあれば、幾つかの秀作は全て同じ人物の手によるものだった、と感心される可能性もあるわけです。
自作に自信があることが前提でしょうけれども、どういう受け取り方をされるかは箱の蓋を開けてみないと分からないんですね。審査員に感心されるか、嫉妬心を抱かれるかそれもまた、作品の出来という裏付けに左右されるところです。
(8)設定遺伝子の継承は、オチの共有……とは限らない
設定をどのように継承させていくかが遺伝記の重要なカギでもあります。
ここで気をつけたいのは、継承する遺伝子=設定をどう扱うかということ。オチを共有して、「必ず同じオチに落ちてしまう」というのもお約束のひとつとしてはアリなのかもしれませんが、そればかりが続いては新鮮味がありません。「またそれか!」と思われてしまえば、アイデアの新鮮さで子孫作品は先祖作品に負けてしまいます。
言うまでもない話ですが、同じ設定からスタートして違うオチに膨らむ、複数の設定をとりまとめて違う設定に変えるなどなど、手管はいくらでもあります。
重要なのはやはり、その設定遺伝子に便乗・悪のり・尻馬に乗ってくる応募者を、どれだけ掘り起こせるか。
魅力的な文章で書かれた魅力的なアイデアを、どこまで広げていけるかが見所になります。
多くの人に継承された設定遺伝子のルーツとなった作品は、作品そのものの出来不出来に拘わらず「外せない一作」という重要な位置を占めることになりますし、その設定は広く受け入れられることにもなります。
設定同士の全体として矛盾があってはいけないわけではなく、広く受け入れられ、引き継がれた設定、共有された設定ほどメインストリームとなり、不人気な設定、袋小路の設定は、そのまま埋もれていくことになります。
遺伝記――遺伝子を残し子孫を増やすとは、そういうことです。
そして、一番忘れちゃならないのは怖い話でなければならないということ。
怖くなければどれほど上手くできていても全て台なしです。
これが一番厄介で、何かを識ったとき、誰もが同じように怖がるとは限らないということ。人によっては目も耳も塞ぎたくなるほどの恐怖が、他の人には何の恐怖も疑問も違和感も湧かない愛らしいものであることすらあります。万人受けの恐怖というのは理想ですが、それはそれでプロでも難しいものでもあるわけです。
自分なりに「これは怖いのだ」ということを読者に伝えることができ、読者が同じように「なるほどそれは怖い」と思われるようなものを書くこと。
もっともシンプルで、もっとも難しい要素です。
●どう審査(講評)するべきか? ――人間性が試されます
(1)自作やライバルの作品を早めに講評して、その後に続く講評の流れを作る
まず、自分の作品を書いてどんどん公開していくことを最優先に考え、審査(講評)については自作査定もライバル作品の審査も後回し……というのもひとつの戦略ですが、一方で自分やライバル作品の審査について、どんどん先に手を付けてしまう、という戦略もあります。
遺伝記では作品の末尾にコメント講評記入欄があり、既にコメント講評が付いているものについては、コメント講評記入欄よりも後に表示されるようになってはいます。
しかし、既にコメント講評が付いていれば、なんとなく他人の反応が気になってしまう、というのも人情としては理解できます。そして、他人の講評が先に出ていると、なんとなくその講評で書かれている内容に左右されてしまうものです。
先に書かれている講評が全般に好評であれば、それに反論を唱えるのは「空気を読んでいない」「へそ曲がり」「ライバル叩き乙」のようなリアクションを受ける可能性もあり、やりにくいものです。
これは先行している講評が全般に辛評だった場合も同様で、そこに後から面白かったと書けば、やはり同様に「空気を(略」「へそ(略」「自作品ヨイショ乙」といった言われ方をしてしまいかねません。
仮にそんなことを言われなかったとしても、言いたいことが書かれている講評があれば、それに少なからず影響を受けてしまうのは避けられません。
そこで、自分の作品やライバルの作品について、他人の手垢が付いてしまう前に、さっさと講評を済ませてしまって、後に続く流れ・評価に関する雰囲気を作ってしまえ、というやり方もあるかもしれません。
もっとも、審査が全て終了した後、「誰がどれに対してどんなことを書いたか。それを言った当人はどんなもんを書いていたか」は広く公開され、誰にでも検分できるわけですから、人の評価は気にせず後ろ指を指されないような率直な審査に立ち戻り、自分の素直な感想、素直な評価を書くのが、結局は自分自身のためになるのではないかな、とも思います。
(2)自作品に下駄を履かせるのはいいことか悪いことか
遺伝記には、「自作品を自己査定せよ」というルールがありますが、自作品をどう評するかというのは実際難しいのではないでしょうか。
例えば、ライバルに差を付けるため、自作品には常に最高点を付ける、というやり方もあるでしょう。
そんな下心とは関係なく、「自信のあるものしか外には出さないし、自作品は常に最高傑作だ」という自信に溢れた人もいるでしょう。
作品を出したものの、時間が経つにつれて気に入らないところが目立ってきて、後でまとめて審査したらどれも気に入らなかった、という人もいるかもしれません。
しかも、自作品の自己査定は「書いた当人として」という立場で書くわけにはいきません。それをすれば、「これを書いたのは自分」と種明かししてしまうことになってしまいます。あくまで、第三者的な立場から自作品を評しなければならないわけです。本編中に足りないところを、自己査定で補足、というわけにもいきません。
自作品への講評について下駄を履かせる、良い点を付けるということそのものは、別に間違いでも否定すべき卑怯な態度でもありません。
他の審査(講評)と同様、「その点数を付ける理由」が説明できるかどうか、というこの一点に尽きると思います。
自己批判、自省、自己評価、それらについて、第三者的な立場から十分な説明を書けるのであれば、自作品にどんな評価を与えるのも悪いことはないと思います。
(3)ライバルの作品を高く評するか低く評するか
遺伝記では応募者はライバルである他の応募者の作品を講評しなければならないというルールがあります。
ライバルを褒めれば褒めるほど自分の作品の評価は危うくなりますし、かといって自作品だけ褒めてライバルの作品だけは難癖を付けて回るというのでは、後で作者が明らかになったときに「あいつはなんだ」ということにもなりかねません。もちろん、自作に絶対に自信があり、ライバルの作品全てに不満があり、それを十分に説明できるのであれば、そうした態度を取ることも問題だとは思いません。
これは自己査定の場合も同様ですが、「なぜその点数に値するのか?」を自分の中で消化できているかどうかということが求められるのだと思います。「理由はないけど/理由はうまく説明できないけど、なんとなく○点」というような、気分での配点をされては、点数を付けられたほうも「なんで?」と首を捻り、配点にも納得しにくくなってしまいます。
自作品に高得点を付けるために全てのライバル作品も同様に高得点を付けてしまうというのもまた戦略のひとつかもしれませんが、それでは自作とライバル作品の間に点数の差はほとんど生まれないことになり、質的にも等価値だということになります。応募作の全てが等価値で同程度の評価というのは、あり得ない話ではありませんがなかなか受け入れがたいものです。
自分と他人が同一の存在ではない以上、好きなもの興味があること許し難い一線は人によって異なって当然と言えます。その「自分と違う他人」を認識&意識でき、自分と違う視点を持つ他人を許容できるかどうか、応募者の人間性のようなものを諮るのが、ライバル作品の相互講評の主眼のひとつです。
(4)友人知人を動員して、自分に有利な一般審査員の人数を増やす
遺伝記では、応募者全員に自己査定と相互講評が課されています。
仮に、もし応募者全員が自作とライバル作品の全てに満点を付けたとすると、点数は極めて拮抗することになりますが、その拮抗を崩すカギを握るのは、一般審査員ということになります。一般審査員=作品応募はせずに読むだけ、評価するだけに特化した存在ですが、一般審査員は応募作品の講評について、ボーナス&ペナルティはありません。好きなもの、気に入った話にだけ点数を追加することも、嫌いなもの、気に入らない話だけを選んで点数をマイナスすることもできます。
つまり、点数の幅、人気を左右するのは、一般審査員をどれほど惹き付けることができるか、ということだと言えます。
良い評価をしてくれる一般審査員の人数が多いほど自作の点数は増えていきますし、逆に辛評をする審査員が多いほど自作の点数は下がっていきます。
そこで、作品応募をしない友人知人を一般審査員に動員して、自分の作品を重点的に褒めて貰う、ライバル作品は満遍なく貶して貰う、そういった戦略を採る人が出てくるかもしれません。講評者の人数が増えることそのものは歓迎すべきことですが……。
重ねて言いますが、結果発表のとき、それまで応募者名匿名で公開されてきた全ての執筆作品は、「誰が書いたのか」「同じ作者は他にどれを書いたか」が合わせて公開されることになります。
傾向や指向性がわかりやすい工作は、それだけで「仕込み」が浮かび上がってしまいます。
友人知人を審査員として招き入れることは問題ありませんが、「自分の作品とライバルの作品をそれぞれ教えて、自分に利する評価を頼む」というのは、「事前に自作品がどれかを公表する」という禁止行為に抵触するものでもあります。リスクを犯す、或いはそうした行為を疑われるような工作は、思いついても無理に行うのは避けたほうが良さそうです。
李下に冠を正さず、ということです。
(5)公開されたとき後悔しないよう、己を省みる
まとめになります。
遺伝記における自己査定は、自己分析力、自信、公正さを知るためにお願いしているものです。
同様にライバル作品を審査する相互審査(講評)もまた、ライバル作品に対する読解力、分析力、洞察力、公正さなどを知るためにお願いしているものでもあります。
色気が出ればそれは審査行動から見透かされますし、やけっぱちになればそれもすぐに審査として書かれた文章から見抜かれてしまいます。
自分以外の誰かを動員して自分有利を演出するということも、やはり「その講評を書いた人は、他の作品についてどんな講評を書いているか?」から辿れば、名前が公開される前であっても繋がりというのは透けて見えてしまうものです。
透けて見られて困るなら、透ける前と透けた後が同じ姿であるように心がけるのが、一番の対応策です。
つまりは、後で応募者名=講評者名が公開されても、何ら困らないよう、自分自身の信念に基づいた講評を日頃から行われるのが、遠回りのようでいて早道なのかもしれません。