難しい話を端折ると、以下の通り。
結果発表後、優秀作がたくさん集まれば傑作選を刊行。応募された人気作は傑作選に収録され、印税が支払われる。
審査員に人気があった作品が、傑作選に収録されることになる。
言わば、審査員のおひねりを竹書房が代行して印税払いする、ということ。
気に入った作品を推していただきたい。
それは人それぞれ。
何もしなくても話が持ち込まれ、処分に困った末に実話怪談に書きまとめるようになった、という人もいれば、怖い話何かないかと聞きまくっているうちに、「怪談と言えば○○○」という評判が立ってしまった人もいる。評判の心霊スポットを片っ端から当たってまわる人、霊感のある友人を相棒にしている人もいる。
ただ、怖い話を知っている人に「では何か怖い話をしてください」と切り出しても、ほとんど話は出てこない。
自分の知っている怪談を幾つか話して水を向けると、「そういうのでいいなら、こんな話が……」と意外な話が拾えたりする。
また、体験談を頭から疑って掛かる、頭から否定する、という態度を取ると、体験者は話を途中でやめてしまったり、以後は話してくれなくなったりすることも。証明が難しいパーソナルな体験であるが故に、体験談を信じる、体験者を信じる、体験者を尊重する、というところから入って、信頼関係を築くことが何より重要。おそらくは文章を磨く努力よりもこちらのほうが重要かもしれない。
体験者から信頼を得られれば、「次の体験者」を芋づる式に紹介して貰えることもしばしば。
何はともあれ、信じて貰えにくい体験を抱え込んでいる人々を肯定することから始めることが何より重要だ。
実話怪談は、他人とコミュニケーションが取れる社会性がある人間でなければ、文章技術どころか書く前の準備すら難しいものなのである。
実話怪談は、取材した(または自分自身が体験した)体験談を、実話であるという前提で書き起こしたもの。応募者自身が実話であると信じる、または体験者から聞いた話に嘘を交えないという真摯な態度が必要。
実話怪談であると自信を持って答えられるのであれば、再現方法や文体はどんなスタイルのものでもかまわない。
また、同じ体験者の別の体験談を、複数の話に分けても構わない。
ただし、複数の話はそれぞれが独立していなければならない。
A、B、Cの話が同じ体験者から聞いた連作の場合でも、読者がどの順番で読んでも話が成立する、またはどの順番で読んでも他の話を読んでいることが前提にならないのであれば、それぞれA、B、Cは独立した話という扱いになる。
しかし、AまたはBがCを読むための前提として欠かせない(A、B、Cを読む為の順番が指定される)という構成の場合、A+B+Cは分割せずに、まとめて1作品としたほうがよい。
原則として新着順に公開されるが、審査員が必ずしも新着順に読むとは限らない。例えば、後半になってから読み始める審査員は、その時点での最新着のものを読んだ後に、古いものに向かって遡っていったり、自分の好みのものをタイトルから推測してつまみ読みするかもしれない。50音順に読んでいく人もいるかもしれない。
以上を踏まえて、必ずすべてが単品として読んで成立するものを書くこと。
できればプレーンテキストファイル(拡張子.txt)で。Windows付属のワードパッド・メモ帳などで開ける形式のもので。
ファイル名は「作品.txt」「墓場の夜.txt」などのように、作品タイトルを付ける。
ファイルの一行目にも作品タイトルを入れる。
1ファイル=1作品とする。
1ファイルに複数の話をまとめて送らない。
イラスト、マンガ、写真、映像・動画などの形で実話怪談を応募する場合は、PDF、JPG、MP3、MP4、FLVなどの形式も可とする。
これまでの例で言うと、早めに送ると審査員は早い順に読んで講評していく場合が多いので、読まれる機会が増える。
このため、評価を受ける機会が多くなる。
良作であれば、より多くの配点を得る機会が増える。
そうでない場合、減点・批判の機会が増えるが、早い段階から応募して、受けた批判を参考にして新作を出して行けば、成長の機会をより多く生かすことができる。
逆に、全体の動向を窺って、講評者の好みや傾向を見切ってから遅めに応募するというのもひとつの戦略だ。
ただ、「大切なネタ」「とっておきの話」を温存しているうちに、似通った怪談を他の誰かが先に出してしまう可能性もある。
怪談は、初接触・初読時のインパクトによって感想が左右されるところが大きく、以前に似た話を読んでいると話の終わりに辿り着く前にオチを類推されてしまう恐れもある。文章の出来が良くても、似た話というのはインパクトが薄れる。
その意味でも、「ネタは温存しない。どんどん出す」ほうがよい。
自分で精選したネタ、特に力を入れて書いた渾身の一作のみに絞って出せば、それが良作と評価された場合はマイナス点が付きづらく、単作で高得点を狙えるかもしれない。
しかし、自分にとっての渾身の一作が、必ずしも評価を下す講評者たちにとっての良作になるとは限らない。手を抜いて書いたもの、本命ではないとして没にしたネタの中に、誰かの琴線に触れる話があるかもわからない。恐怖のツボは人によって大きく異なり、万人に共通の恐怖というのは非常に希少であり、どれがその「万人受けする恐怖なのか」を、発表前に応募者自身の価値観だけに照らし合わせて見極めることは難しい。
だったら、悩んでないでどんどん出してしまって、講評者の判断に委ねてしまったほうがいい。
数を重ねると筆が荒れるのでは、と警戒する向きもあるかもしれないがそれはむしろ逆。
ネタが十分にあるならば、むしろ数をこなしたほうが文章を書くことに馴れていく。文章に自信がない人はなおさらだ。
自信がない人が、自信のない自分の価値観でよいものを選ぶならば、自信がある講評者の価値観に委ねてしまったほうが視界が拓かれる。
すでに触れたように、量を出すことが結局は一番の早道。
そうでなければ、好みが違う不特定多数の講評者全員から評価を受けられるような、万人が感服する大ネタを投入するか。
万人受けする大ネタを選んで見つけられるようであれば、それは凄い才能だと思うけれど。
超-1は、短期間に大量に書くことによって、応募者の筆力を無理矢理向上させる効能を持つ。
以前の大会の例で言うと、第一作と最終作、傑作選への書き下ろし作までの半年足らずの間に、文章力が見違えるほど上達した応募者が多数輩出された。
それらに共通したのは、「量産した」「批判・批評で指摘されたことを新作に反映させた」など。
勝手に集まってくるという人もいれば、聞き回ったという人もいるが、取材量の多さが量産を可能にし、短期間での量産と講評を受けての方向修正、同時期に大量公開されるライバル作品から受ける影響などが、飛躍的に表現力を高める。
特に、取材でまたは講評について、「多くの人の話をよく聞く」という人ほど書き手としては伸びる。
講評の言いなりになってもだめだし、何もかもを聞き入れようとしすぎて自分を見失ってもダメだが、批判に耳を塞いで我が道を行くだけでもだめ。
たくさん体験談を聞く、たくさん怪談を書く、講評で指摘されたことには真摯に耳を傾ける、向上心を持ってまた書く。即醸速成の極意は、「聞く、書く、たくさん聞く、たくさん書く」の繰り返しである。
実話怪談の真髄である「聞く、書く」を地道に繰り返すことが、結局は即醸の道となる。
超-1では、応募者は自分の作品以外に他人の作品も読まなければならない。その他人の作品にも講評を入れなければならない。
新作は毎日公開される場合もあれば、ブランクがあく場合もありうる。
エントリーblogを毎日チェックするのが面倒なときは、RSSリーダーにエントリーblogのを登録しておくとよい。
RSSリーダーについては、こちら。
また、2010年大会から更新情報告知用にTwitterも導入されている。
Twitterユーザーは、こちらもご利用を。
文章技術力、体験談の希少性(取材力、または運の良さ)の他に、好み、恐怖度、没入感、泣ける度、不思議度、セピア色度、などなど、自分が実話怪談を読むときに気になるポイントを、自分なりの注目ポイントとしてよい。
ただし必ず配点理由は書くこと。
特に、応募者の講評が、
「おもしろかった」「つまらなかった」「嫌いだった」「好きだった」
といった程度の表現のみの場合、表現力と読解力が疑われるかもしれない。
長くたくさん書く必要はないが、応募者による講評文も応募者の執筆者としての能力(読解力、取材時の会話把握力に連なる)を注目されているものだと思ったほうがよい。
これまでの大会では、表現者としての文章力について講評するタイプが多く、取材者の苦労を察する講評をした人はあまり多くなかった。実話怪談著者には有能な取材者であることが求められるのだとしたら、文章力以外の要素について評価講評するという講評方法も、的はずれとは言えない。もちろん、それらのどれについて重視するかについて言えば、講評者の注目する視点の違いでしかない。
「真面目な講評」と「不真面目な講評」という捉え方もあるかもしれない。
何をして真面目と呼ぶかについては意見が分かれるところだろうけれども、対象作品をきちんと読んでいて、それについての自分の所感を、他の人にもわかるように伝えているものは、おしなべて真面目な講評と呼んでよい。読まずに書かれたもの、または講評を書かない者については、不真面目と言われても仕方ないかもしれない。
また、講評を苦行と考えると、投げやりになったり、いい加減な講評しか書けなくなって続かない。
そもそも超-1は「実話怪談を読むことが好き」な人のための大会&祭典でもあるわけで、講評=他人の書いた怪談を楽しめる人であることも実話怪談著者としての重要な資質のひとつと言えるかもしれない。
採点も祭典の一部で(ry
応募者は面倒でも相互講評すること。
他人の作品を読むことは、ライバルの能力を知ることでもある。自分より秀でていれば、よいところを参考にすればよい。文章表現技術には特許はない。
また、応募者による講評は、その応募者の「人の話を聞き、理解する能力」と「コミュニケーション/プレゼンテーション能力」とを知る為の指標にもなる。著者の意図をどの程度理解読解できているか、人と話が出来る人間かどうかなどの判断材料にもなっている。
超-1においては、講評もまた応募者の評価材料のひとつになる。
詳細な長文を書く必要はなく、短い評価であってもかまわない。どういった講評を書く人間かなど、応募作品だけでは垣間見えない人間性などが、講評から透けて見えてくる。
超-1は、原則「全作講評」が目標。なので、自作講評なしにすると、講評をしない作品=応募者、という著者の特定ができてしまう。これを避ける為、というのが第一理由。
第二理由は、「公開済みの自分の作品を、どの程度冷静かつ客観的に見ることができているか」を知る為。
もちろんここでも、「どれが自分の作品か」については伏せなければならず、「著者当人でなければわからないこと」を作品中から書き漏らしていたとしても、それを自作講評で補完することは禁じられる。
大会終了・ランキング発表後は、誰がどれについてどう書いていたか、ということもすべて公開される。応募者が自作についてどういった味方をしていたか、ということも後で検証されることになる。そういうことも踏まえて、どういう講評をするかが注目される。
再三繰り返されているが、超-1は内容勝負を第一義とする。
以前、いいものを書いたからといって、次もいいものが書けているとは限らない。
逆に、以前書いたものが今ひとつだったからといって、次もそうだとは限らない。過去の大会では、突然成長してくる応募者もかなりいた。
このとき、作品を誰が書いたのかがあらかじめ判っていると、講評者はどうしても以前発表された作品と見比べて先入観を持ってしまう。「○○○を書いた応募者だから、今回もいいはずだ」「前回ダメだったから、今回もたいしたものじゃないだろう」などのような。
こうした先入観を完全に排除するために、超-1では全面的に著者名を隠した状態で作品を発表するようにしている。
全てに決着がついて、ランキング公開されるまで、著者名は伏せる。
それが超-1の鉄則。
ただし、「超-1に応募しました」「今年も参加しています」と、大会への参加表明をすることそのものは問題ない。ペナルティももちろん発生しない。
「超-1に参加していて、自分の作品はこれなのでお願いします」というのはダメ、ということ。
これについては、blogで発表というのはもちろん、友だちに直接……というのも不正行為を疑われる場合がある。
自信作を応募するのだから、それについてネガティブな講評が付いたら腹が立つのは判る。
が、それを真っ向から拒絶するのもどうか。
批判は何についてか。例えば、「そんなことありえない」と、ネタそのものを真っ向否定されているのか。「ネタはいいけど文章がダメ」なのか。意図したことが伝わらず、見当違いの批判を浴びせかけられているのか。
どの場合でもそうだが、一度発表してしまった作品について、「いや違う。そうじゃない」と著者が弁明をする機会というのはまずない。うまく伝わらなかったら、自分の説明が不十分だったのだと反省するしかない。
「自分の作品は完璧だったが、読者のレベルが低かった」という負け惜しみに逃げ込んではいけない。
著者は読者を選べないのである。どんな読者にも意図が伝わるよう筆舌を尽くす――そのために、筆があり舌がある。
次にどうしたらいいか、どうすれば言いたいこと、伝えたいことが伝わるか。
実話怪談において文章技術は、「体験談を再現し、それを伝えるために必要なもの」である。伝えるべき体験談が伝わるようにするためには、まずは「何が伝わらなかったか」「自分のどこがダメだったか」を知る必要がある。
自作品への苛烈な講評は、自分では気付かない「他人から見た自分」を知る為の有用な機会でもある。腹を立てる前に、糧にするほうが有益である。
ペンネームには特に制限はないが、街中や人前で人に呼ばれて恥ずかしくない名前と、縦書き表示にしたときに見栄えする日本語表記を選んだほうが無難である。
まず、街中・人前で人に呼ばれて恥ずかしくない、について。
後で改名するのでない限り、今後もずっとその名前で呼ばれ続けることになる。
声に出して、駅前で100メートル離れたところから大声で名前を呼ばれるとか、喫茶店やデパートで呼び出しされるとか、そういうシチュエーションで呼ばれたとき、返事をしたり名乗り出たりするのが気恥ずかしくない名前、ということは考えたほうがいいかもしれない。
名前を考えているときと、文字としてのみ読んでいるとき、それを自分一人の中で反芻しているときはあまり気にならないかもしれないが、名前というのは「自分を特定する為の固有記号」である。他人に呼ばれてナンボであるわけで、呼ぶ側が気恥ずかしい、呼ばれても返事をしにくい名前というのは、自分一人だけでは気付きにくい。
家族友人兄弟などに街中で呼ばれてみて、恥ずかしくない名前を選んだ方がいいと思う。
気負いすぎ、捻りすぎ、うっとりしすぎな名前を付けると、10年経ってから顔から火が出るほど恥ずかしい気持ちになることもある。若さ故の過ちにも注意。
また別の理由として、ネットで検索したときに見つかりやすいかどうか、というのも意識したほうがいいかもしれない。例えば、漢字一文字、比較的一般的な言葉・熟語・固有名詞、既存商品名などを使うと、著者名を検索したときに結果に辿り着きにくい。
例えば将来、このペンネームでプロデビュー、ということになったときに、「気に入った、他にどんな本を出している人なのか?」と検索したときに、目当て以外のものばかりが検索の網に掛かって、見つけてほしいものに辿り着けなかったり、ということも起こり得る。
アルファベットは避けたほうがいい、について。
もちろん、絶対禁止事項ではない。が、書籍になったときに、極めて見栄えとバランスがよくない。
webページは横書きが基本なので、アルファベットも普通に表示される。が、文庫本などは基本は縦書き表示になる。このとき、半角全角に拘わらず、アルファベットは縦に表記される。
右は、横書きの「collection」「champion」を縦書き表示にした例だ。小文字では、g、p、q、j、yなどのようにベースラインより下にはみ出す文字は縦書きにすると次の文字とくっついてしまう。また、b、d、f、l、などのように、上に伸びた文字とベースラインより下にはみ出す文字が並ぶとさらにバランスが崩れる。
こういうのが気にならない人はともかく、気になる人はアルファベットは避けた方がいいかもしれない。
そして、余談ながら文字の密度について。
漢字表記で何か基準や禁止事項があるわけではないのだが、もし自由に設定できるのであれば一考したほうがいいのが、文字の密度について。
これが、本名だったりすると変えようがないのだが、本名とは別のペンネームを選ぶのであれば、一考しても損はないので余計なヒントのひとつとして解説しておく。
文字の密度のバランスがよい名前は、本のカバーになったり印刷されたときに安定感がある他、デザインの幅が広がるというメリットを持つ。
と言われても、別に「画数による姓名判断」とは別の話。
ピンと来ないと思うので、ここは「超」怖い話Ιのカバーという実例を引いて説明をしよう。→
見た通り、四代目編著者の名前は、「加藤一」。これは、本名なので変えようがないのだが、「藤」は画数も多く密度の高い文字、「一」は画数は文字通り一画しかなく、非常に低密度の文字だ。
この名前を表現しようとするとき、明朝体(横線は細く、縦線は太い)を用いると、背景画像次第では「一」という文字はかすれて見えなくなってしまう場合がある。
「一」がはっきり見えるようにゴシック体(縦も横も同じ太さ、かつ太い)を用いると、今度は画数の多い「藤」という文字は濃くなりすぎて潰れがちになってしまう。大きな文字の場合はともかく、小さな文字の場合は非常に厳しい。
「超」怖い話歴代著者の名前を図で見てみよう。
安藤薫平 |
○■■▽ |
樋口明雄 |
■□□■ |
平山夢明 |
▽△●□ |
加藤一 |
□■− |
松村進吉 |
□□■□ |
久田樹生 |
△□■○ |
渡部正和 |
■□□□ |
このように、文字の密度が揃っているか、中密度と高密度の文字が並ぶか、ワンポイントで高密度の文字が入る分にはバランスは悪くないのだが、横線のみの低密度な文字と高密度な文字が並ぶのはあまりよくない。
「加藤一」は密度のみを見ると「□■−」と、非常にバランスが悪いわけだ……orz これは本名なうえに定着している名前なので変えようがないのだが、変える機会と考えている人はこういう点に注意してみてもいいだろう。
一という文字が悪いのかというと必ずしもそういうわけでもなく、例えば「乙一(○−)」氏のように、使われている文字の密度が近いものであれば、バランスはよくなる。
もし、ペンネームを後々まで(例えば、表紙に名前が印刷されるような機会まで)変えずにずっと使い続けるつもりで付けるのであれば、
とりあえず、このあたりは気をつけたほうがいいかもしれない。
占い的な意味での画数については、好きにするといいと思う。
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